尼港事件 ニコライエフスク事件

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昭和25年04月03日 衆議院 考査特別委員会
[462]
自由党(自由民主党) 田渕光一
もう一つお伺いしたいのは、ソ連人は人間社会から見ればあわれむべきものだ。われわれは報復手段を講じようとかどうとかいうのではありませんが、人間としてソ連人はまことにあわれむべき民族だというのは、すぐる尼港事件、バルチザン事件、今回起つている事件、これなどを見て、宗教を信ずるわれわれとしては非常にお気の毒に思うのであります。むしろ不完全な民族である、こう思うのであります。

われわれの祖先は7、800年前に、忽必烈が日本へ攻めて来て壱岐、対馬で残虐な行為をしたが、台風と申しましようか、暴風雨で船がくつがえつて、10幾万の蒙古人がなくなつた。この当時、すでに蒙古から来た方々の霊を慰めるために、蒙古人の供養塔というものを建てておつた。それが太平洋戦争の最中に大東亜会議というものを開いたときに、蒙古を呼ばなかつたというので、蒙古の徳王が日本の政策に協力しなかつた。そこで徳王を連れて来た人がありまして、これが博多へ上つたときに日本が今回の会議に君を呼ばなかつたことをお怒りのようであるが、われわれの祖先が600年前にこういうことをしておるのだ。10幾万のなきがらの霊を供養するために供養塔を建てておる。こういつたときに涙を流して喜んで、日本人とはこういうものかというので、大東亜会議に呼ばれなかつたということが、一ぺんでかわつてしまつたという事実があつたのであります。

これが日本民族のいいところであると思います。しかしわれわれが生れかわつて、何100年か後にソ連領に行くことがあつたとすれば、尼港事件から引続き今回のわれわれの同胞のほんとうに気の毒な白かばのこやしとなつた方々、思想のために圧迫を受けたこの方々に対して、そういうふうに何か喜ぶべき、涙を流すようなものがつくられておるか。たとえ一片たりともそういうようなことが目撃されたかどうか。あるいはそういうようなものがなかつたかどうかということを、将来のために伺つておきます。

私は仏教を信じ、霊魂不滅を信じておるものでありますから、幾年かの後に、再び生き返つていずれ行く人もあるだろう。そのときにわれわれの友人、あるいはわれわれの兄弟がまことに苦しい、恨み骨髄に徹したというものが浮かばれると見るべきものがあつたかどうか。たとえ一片でもよろしい。一つの石ころでもよろしい。そういうことがあつたかなかつたか。なければないでよろしい。それをお聞きしたい。

[463]
証人(イズベストコーワヤ地区引揚者) 上村宗平
唯物論者にはそういうことはありません。大体が民族というようなことも必要はなくて、日本民族とかロシア民族とか、スラブ民族とか非スラブ民族とか、トルキスタン民族とかいうことをいう必要さえもない。日本人的な考えというものは、どういうことであろうともつるし上げられる。大体民族というようなことを何すると、共産主義者はチトーみたいなことになつてしまう。だから一切そういうことは成立ちません。人間が生きるとか死ぬとかいうことも、人間そのものが物質である。脳髄がこわれれば心臓がとまつてしまうのですから、それに対して墓を建てたり、その人の記念というものは必要ない。

ただふしぎなことにはレーニン廟があるということは、われわれには理解できない。





昭和26年05月14日 参議院 労働・地方行政連合委員会
[099]
日本社会党(社会民主党) 片岡文重
私は総監の御説明を伺つておるときに、かつて私が幼少の頃にニコライエフスクに起されたあのトリヤビーチンの残虐行為を、はしなくも思い起した。虫も殺さぬあの美人であつたトリヤビーチンが邦人何100というものをニコライエフスクに残虐しておる。





昭和27年04月22日 衆議院 行政監察特別委員会
[139]
自由党(自由民主党) 田渕光一
取締り公安官あるいは取締り当局の子供までも拉致するというような脅迫状をよこすに至つては、もうそれは言語道断、人道上許されない問題であります。

ことにこの中核自衛隊はだんだん進んで行くと、これがパルチザンと人民軍になつて行くのだと球根栽培法には書いてある。このパルチザンのやり方というものは、あのニコライエフスクのような残虐なことをするのである。当時は竹村君はまだ子供であつたからわかるまいが、われわれは青年時代であつた。こういう非人道的な線まで進んで来るということが球根栽培法に書いてある。

これはあの時代から一歩進んで、家庭の婦女子ならいざしらず子供までも拉致するというような問題にまで脅迫状が発展して来ておる。たとえばこういうような脅迫を受けたその官舎なりあるいは私邸なりに対して、中国特審局の情報では、国警なり、市警なりがこれを監視する配置手続をとつておるかどうか、これをひとつ伺いたい。





昭和31年04月19日 衆議院 本会議
[005]
日本社会党(社会民主党) 高津正道
田中大将の金塊はロシヤ革命に深い関連があるのでありまして、この共産主義革命は、歴史家も政治家も忘れられない、あの1917年11月7日、ボルシェヴィキの首領ニコライ・レーニンの指揮よろしきを得て、すなわち、彼は、11月6日ではまだ時期が熟さない、11月8日では盛り上りが引き潮になって熱が下る、火ぶたを切るのは11月7日に限るというがごとき、神技に近い周到なる戦略戦術から割り出した、その11月7日に、大クーデターというか、共産主義革命の火ぶたを切り、ついに力で押しまくって時のケレンスキー政府を倒し、いわゆる独裁政権を樹立したのでございました。

この時期はまだ第一次世界大戦の進行中ではあり、全世界をことのほか驚愕させたことは申すまでもありません。そうして、全世界の批評の大部分は、間もなくその政府は崩壊するであろうというふうに見ていたのであります。ロシヤの国内では、これに反対する将軍たち、ウランゲル、コルチャック、デニキンなどの反動将軍が、外国資本家の援助によりまして、軍を率いて共産政権に武力をもって対抗いたしました。シベリア方面における反革命自衛軍の大将がセミヨノフでありまして、わが日本も、実はヨーロッパ資本主義国の例にならい、このセミヨノフをかつぎ、彼を援助すべく、無謀にもシベリア出兵をしたのでありました。(拍手)ではありましたが、セミヨノフ軍が弱いというよりも、ロシヤ人の、あのねばり強い国民が、ツアーの専制政治、圧制政治から解放されたという喜びを一人一人が経験しておりまして、すばらしく勇敢で、彼らは強かったのであります。軍隊に入っていない者も、いわゆるパルチザンとなって、ハンマーを持ち、かまを持って、反革命のセミヨノフ軍、それの応援軍たる日本軍を、寒い荒野で悩ませ続けたのであります。

あるときは、日本軍がニコライエフスクに包囲されて、そこで、ある部隊は全滅したことがあります。当時早稲田大学にいた私には忘れ得ない深い印象がありまして、ニコライエフスク事件が日本の大学生に与えた影響について、一言やはり触れたいのであります。(拍手)日本の一部隊がだんだんと殺され、最後に同地の領事館でわが部隊長が自殺するのでありますが、有力な一人の従軍記者が、早稲田大学の、あの大隈侯の銅像の前で、その自殺の詳細を、集まった1000数百名の私たち学生に報告したのでございました。彼は演説をしました。領事館の一室に最後に残ったのは、7才になる自分の子供を連れた部隊長何々中佐であります。演説者はそのように続けました。外に銃声やときの声が上るが、中佐、このとき少しも騒がず、(拍手)わが子に向い、お前はさむらいの子か百姓の子か、すると、いたいけないその子は、お父さん、さむらいの子、と答えました。中佐は涙を浮べてその子の頭をなでていたが、許せという声とともに、やにわにわが子をピストルで殺し、自分もともに自殺しました。と、まあこういう筋の講演でありました。

従軍記者の次の講演者は足の悪い大隈侯ですが、市島大学理事の肩にすがって大隈邸から出てこられるので、その10分間ほどの時間に、私は、同志の勧めるまま、その壇上に上り、今聞いたばかりの演説を反駁いたしました。私の論旨は包囲されて最後に領事館の館内に残った人間は父と子のたった2人きりで、しかも、一時に死んでいるというのに、その現状の詳細があのように具体的に伝えられるということはあり得ないではないか。天井に自分だけが隠れていて3日目にのがれ出たので、この話がかえってできるのだ、というわけでもないし、われわれ若き理性ある学徒は、このような作り話に迷わされてはならない、諸君は何と思われるか。第2に、さむらいの子を善玉となし、百姓の子を悪玉ときめてかかって、さむらいの子か百姓の子かという尋ね方が、今もなお、さむらいを何か貴族のように考え、全国の農民を侮辱するものであって、僕はこのような考え方には絶対反対である。大体こんなふうに反駁し、正論にくみする純情な大学生から相当な拍手をそのとき私は受けたのであります。(拍手)そうして、不思議にも、本日、この議場に、そのときその場で私に拍手、声援をして下さった36、7年前の同志を、1人ならず、2人ならず、見出し得ることは、私の感慨まことに深いものがあるのであります。(拍手)

さて、強かるべき日本軍も、案外にその武勇をふるい得なかったのであります。それは、おそらく、他国への明らかな内政干渉ではあるし、また、時の日本政府が、ヨーロッパ側から共産政権に立ち向った軍もはなはだ気勢が上らない実情を知るにつけ、下手をすると日本軍だけが共産軍との間に結んで解けない長い戦争に巻き込まれはしないかと観測して日本の方で本腰を入れなくなったため、この2つの理由のほかに、そのころの日本の国内の世論のうちで、先の見える進歩勢力からシベリヤ出兵反対という相当のブレーキもかかっていました。これらの事情で、ついにシベリヤから撤兵することになりました。





昭和32年03月12日 参議院 予算委員会
[118]
自由民主党 吉田萬次
それから次にソ連の未帰還者の問題についてであります。この問題は、昨日千田君から質問もありましたが、私は、きわめて重要な問題であり、また、考えを多少異にしておる点から、お承わりしたいと思うのであります。

それは、いわゆるソ連の交渉の任に当っておるところの、諸君が、疑心暗鬼を生ずるという意味から、この未帰還者に対する実際の数とか生死とかいうものを十分に打ちあけぬのではないかということを考えるのであります。要するに、いつ、どこそこで死んだというようなことに対して、ある程度まで明らかになっておっても、しかし、その日本人の考えというものが、家族の考え方というものが、どの土地において死んだということになれば、どういう事件の虐殺に連座しておりはしないかとか、あるいはいつ死んだということについてはやはりどういう……処刑を受けたのではないかというようなことを想像をたくましうする。

もちろんソ連といたしましては、尼港事件以来しばしばわが国の邦人、いわゆるわが国の軍隊あるいは一般民に対しての残虐な行為をしておるという歴史的の考察から考えましても、やはり疑心暗鬼を生ずるのかもしれませんけれども、とにかくそういう考えから、実際に判明しておる部分まで隠されておるようにも聞き及ぶのでありまするが、かような点から考えますると、交渉はただ正面から普通の交渉をしておっても駄目だ、いわゆる胸襟を開き、そして前のことを帳消しにして、そして新しい立場において、納得のいく交渉によって、生死の不明を明らかにし、未帰還者の存在というものを個々に調べてもらうということが必要なことであるという点において、今度かような問題について新しくその議員を派遣せられるということでありまするが、この問題について、十分の御考慮が願えるかどうかということを承わりたいと思います。





平成26年05月29日 参議院 外交防衛委員会
[098]
結いの党 小野次郎
一つ、在外邦人の保護のための自衛隊の出動という可能性について指摘しておきたいんですね、質問もしたいんですけれども。これは、ある意味では集団的自衛権の問題以前の大問題だと私は思っています。

というのは、古いことを言うのも恐縮ですけど、1920年の尼港事件って御存じですね。ニコラエフスク港事件だとか、1932年の上海での僧侶殺害事件なんかが駐留の理由になったり武力行使の理由にされてきているというのも現実にあるんですね。

ですから、今特にそれ、昔以上に世界中に日本人いるわけですから、確かに日本人の生命、安全を守りたいというのは私たちの責任でもありますけれども、それが自衛隊を出動させて武力を行使する理由になるかというと、よくよく考えないといけないだろうと私は思います。

ですから、自衛権行使の目的は、国の領域主権及び国の独立の維持だというふうに考えるべきだと思いますけど、総理の御認識をお伺いします。



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