もう一つの「竹林はるか遠く」

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昭和20年12月14日 貴族院 本会議
[006]
研究会(会派) 関屋貞三郎(勅撰議員)
此の機会に私が得ました、最近の、私の知って居る人から来た手紙を読むことを御許を願いたい、之に依って其の事情が能く分るのであります、大分略しまするが、

「私も幸い復員家族として去る10月25日京城を出発し、11月1日敗戦国民の辛労を味いつつ、殆ど焦土化せる」…、此の人は水戸の人です、水戸に帰国致しました、水戸の家も自分の細君の家も焼失して、目下は伯父の家に厄介になって居る、

此の人は長らく教育に従事し、校長を致して居ったのでありますが、

「在鮮32年であります、教育の効果も水泡と化し、終戦直後朝鮮人は全く戦勝国民化し、日本人を憎悪し、殊に米軍進駐後は警察権も鮮人の手に入り、殆ど内地人に対しては無警察の状況である、官公吏、実業家の有力者も何等かの罪名で拘禁されて居る、現に京畿道の知事も、部長も、課長も、20何名かは鐘路の警察署に入って居る、

寺内総督時代に基礎付けられた事業も、終戦と同時に、全く一変して、学生生徒も反旗を翻えし、日本人としても十分反省悔悟の資料となるものも乏しくはありませぬが、兎に角教育の力の如何に乏しいかと云うことを感じて居る、

海州、土城、開城等38度以北、それぞれ占領下の官民の状況も誠に気の毒千万である、海州の○○氏は娘2人、是が行方不明、男子官公吏は日中強制労働、女子は慰安隊となって」只今申上げた「某高官の令嬢夫人の如きは純潔を保つ為自殺を致したことは涙無くしては聴くことを得ざる惨状である、38度以南の者は米人の好意に依り生命には危険なきも鮮人の暴挙には痛憤禁ぜざる状況である、

帰国に際して郵便貯金の外に現金1人当り1000円だけ持参を許可せられ、荷物は両手肩に持参し得る限度に制限せられ、汽車は貨車である、そうして釜山では大抵2泊乃至3泊、而も駅の構内、露天「ホーム」石の上に寒風に暴らされながら船便を待つと云う状況であって、全く敗戦国民、四等国民に墜落せしことが、身に染みて居ります、

幸い私共は10月25日京城を出発した為、寒さもひどくなかったけれども、唯今の帰国同胞の身の上を思うと、誠に何とも申しようない、私共は幸い米軍の幹部に刀剣其の他衣類等を「プレゼント」致して、贈呈感謝状4通迄持って居る為に、釜山、博多に於ける検査も頗る寛大であって、生活に窮せざる程度に現金は持参して居るが、2万数千円の郵便貯金も本月14日より支払停止になりまして、在鮮せし日本人は均しく政府に対して遺憾の意を表して居る、

閣下の御力に依って来たる帝国議会に於ても同胞の為に尽力をして貰いたい、「マッカーサー」司令部に対しても御交渉願いたいのである、米人は誠意と熱意を示して呉れた、実に優秀民族であるから、個人の私有財産も或程度に緩和して呉れることと信ずるが、尚御高配に依って、せめて在鮮せし、即ち朝鮮に居った日本人の郵便貯金だけでも、無効とせざるよう政府より熱心に司令部に交渉方を呉々も御願い申上げる、私も55歳であるから何か最後の御奉公をしたい」と申して居るのであります、

台湾のことは御承知でありましょうが、幸に大体平静裡に推移して居りまして、偶偶散発的に暴行が起りますが、中国軍が進駐後も一般行政に付きましては従来の制度を踏襲して居るのであります、従って先づ平穏と申しても差支ないと思います、是は全く中国の公正なる態度でありまして、我々感謝致して宜いかと思うのであります、但し配船の関係で引揚げる時期、不明であるそうであります、



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